2nd Movement

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 五月の大型連休、管弦楽団は二日間の強化練習に入る。公民館のホールを借り切って、朝は九時から夕方六時まで、みっしりと詰まったスケジュール。六月のサマー・コンサートに向けて、一気に完成間際にまで押し上げるのだ。
 サマー・コンサートにシートのない新入団員や降り番の団員にも練習のための別室が用意されており、できる限り全日程に参加することが求められた。楽器初心者たちに基礎技術を叩き込むことも、この強化練習の目的である。
 透がホールに到着したとき、すでに何人かの上回生がホールにそれぞれの荷物や大型楽器を運び入れ始めていた。何か手伝わねばと思うが、どこにどう手をつけていいのか、皆目見当がつかない。
 だから、朱音の顔が見えたときには嬉しかった。にこりと笑って「おはよう」と言う朱音に、丁寧に挨拶を返す。
 朱音に指示されるままに地下の駐車場から楽器や譜面台、その他の荷物をホールに運び入れ、それらの配置を手伝った。その傍らで大量の椅子が整然と並べられていき、急速に練習会場が整っていく。そして、俗めいた人の喧騒は、次第に楽器の放つ音によって塗り替えられていくのだ。
 裏の顔から表の顔へ。秘められるべき裏に触れた感覚が、透の心を、わずかながら高揚させた。
「透くん」
 ホールの隅から人と音の厚みを増していく光景を眺めていると、脇から朱音に声をかけられた。
「搬入、手伝ってくれてありがと。午前中はどうするの?」
「会議室で練習します。他にやれることないし」
 日がな一日練習し続けられるものでもあるまいが、まずは自ら楽器を吹くことから入るのが新入生の常識というものだろう、と透は思う。
 それを聞いた朱音はやや曖昧な笑みを浮かべ、うなずいた。
「根を詰めすぎないようにね。合奏を聴いてるのも勉強になるから、疲れてきたらこっちにも顔出して」
「はい」
「私は全曲乗りで今日も明日も見てあげられないんだけど、たぶん後で藤岡さんや亜津子さんが見てくれると思うから」
 同じオーボエの二人の先輩の名が上がる。新歓コンサートで演奏を聴かせてくれた二人は、名前を教えられるばかりで、その後顔を合わせることも話をすることもなかった。
 それまで体力を温存しておかないと大変だよ、と朱音は目をキラキラさせて言った。朱音だけでも透にとっては十分に雲の上の存在なのに、その上に在るという二人に至っては、その人となりを想像することは難しかった。怯んだような表情を浮かべた透を見て、楽しそうに笑う。
「大丈夫。取って食われたりはしないから。私なんかより演奏も教えるのも全然上手だから、うまくなるチャンスだよ」
 朱音の視線の先には、いち早く席について音出しをしている藤岡がいた。一音一音を丁寧に響かせるように鳴らしている。素直に美しいと思う音だった。新歓コンサートで聴いたときには「すごい」だったな、と思い返す。
「よく、聴いておくといいよ。鳴らしたい理想の音を思い浮かべて吹けば、それだけその音に近づけるから」
 じゃあ、また後でね。ひらひらと手を振って去っていく朱音の背中を目で追いかけた。藤岡の隣りの席に着くと、もう透に視線を向けることなく、にこやかに藤岡や他の団員たちと言葉を交している。
 しばらくして、もう一本のオーボエの音が無秩序に思える音の渦に加わったのがわかった。
 たぶん、技術的なことを言えば、朱音のオーボエは決してうまい部類ではないのだと思う。クラシック音楽に全くといってよいほど縁のなかった透が聴いてもなお、朱音の紡ぐ音楽にはたどたどしさやもどかしさを感じることが多い。たとえば、今、朱音の隣りに座る藤岡の奏でるメロディーには、少なくとも透の耳では瑕疵を見つけることは難しい。
 だが、透は朱音のオーボエの音が好きだった。たとえ上手ではなかったとしても、透は、朱音の音に出会ったからオーボエを始めようと思ったのだ。
 やがて、潮が引くようにホール内の音が静まり、その中から朱音の吹くオーボエの音だけがふわりと浮かび上がった。

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