2nd Movement

2

 午前中はひたすら会議室に籠もることにした。途中、遅刻を悪びれもせず現れた久保江と意味もない言葉の応酬をした以外は、ただひたすらに、オーボエとチューナーとメトロノームと透との四つ巴の格闘戦である。
 チューナーを見ながら正しい音程を取ること。メトロノームを聞きながら一定のリズムを刻めるようになること。鳴らしたい音をイメージして吹くこと。毎日のように朱音が繰り返す言葉を脳内で反復しながら、吸い込んだ息を楽器に送り込む。
 今、鳴らしている音は、好きじゃない。
 ブレスを取る合間に鳴らしたい音を探った。透の知っているオーボエの音色のバリエーションは多くない。朱音の音、藤岡の音、朱音から借りたCDで聴いたなんとかいうオーボエ奏者の音、朱音の音、藤岡の音、朱音の音、……。次第にそれらが交じり合って、意識が混濁し始める。
「ちゃんとモノ考えて吹けやー」
 頭上から降ってきた声に驚いて、歯にリードをぶつけてしまった。
「って」
「お前は痛くないやろ。リードは大事にしとけよ。自分の懐が痛むぞ」
 テンポよく繰り出される科白に一瞬呆気に取られ、それから冷静に状況を把握しようと努力する。
「あー、藤岡先輩?」
 立っていたのはオーボエを片手にした藤岡だった。もう休憩の時間かと透は周囲の気配を探ったが、薄く開いた扉の向こうに、休憩時間特有の気配は探知できない。
「合奏中じゃないんですか?」
「俺、代吹きだったから、アッちゃんが来たら午前中はお役御免なんだよ」
 代吹き? 「アッちゃん」? 疑問が顔に出たのか、藤岡が笑う。
「代吹きは、休みの人の代わりに吹くこと。『アッちゃん』ってのはうちのもう一人の四年、橘亜津子のことやな。覚えとけ」
 はぁ、と、思いがけず間抜けた声を出したことに薄く赤面して、
「あの、松山透です。よろしくお願いします」
 申し遅れましたが、と言い添えて、座ったままだがぺこりと頭を下げた。
「おぅ、こっちこそよろしくな。期待の新人くん」
 手近な椅子を一脚引きずってきて、藤岡は勢いよく腰を下ろした。
「始めて二週間ってところか。どこまでやってる?」
「ロングトーンと音階練習です。チューナー見ながら、メトロノームは六〇で」
 なるほどね、と呟いて、藤岡は手慣らしに軽く半音階を鳴らした。何気なく吹いたことがわかるだけに、その深みのある音色に透は目を見張る。
「じゃ、ロングトーンからいこか」
 慌てて構えて鳴らした音はあまりに音程も発音も悪すぎて、即座に「もう一回」という藤岡の指示が飛んだ。
 厳しく姿勢やアンブシュアを矯正されながらの練習は、いつになく時間の流れが遅かった。藤岡がやってくるまでに小一時間ほど一人で吹いていたこともあって、そろそろ口周りの筋肉が悲鳴を上げ始めている。飛ばされる藤岡の指示も、それが何を意味しているのかを把握する余裕もなく、ただ表面的になぞるだけになっている。
 いつまで続くのだろう。
 そんなことを考え始めた頃、
「そろそろ一旦休憩しよか」
と藤岡の声がかかった。
「松山は、なんでオーボエにしようと思ったわけ?」
 長机に置いた楽器ケースから管内の水分を飛ばすためのスワブを取り出そうと立ち上がった透に、藤岡が尋ねた。スワブを取り出し、上管と下管を分解し、まず上管にスワブを通す。そこまでして、ようやく透は答えを絞り出した。
「タイミング、です。こんなこと言ったら怒られるかもしれないですけど」
 怒られるだろうか、と思いながら見遣った藤岡は「ふーん」と頷いて、何かのメロディーを吹き始めた。
 勢いよく駆け上がっては下る音の粒。楽しそうに、目指すべきどこかへ向かって、うねりながら、けれど一目散に駆けていく。一瞬不吉な予感が過ぎるけれど、その勢いが殺がれることはなかった。
「別に怒らないよ。理由がどうであれ、松山がオーボエに興味を持って吹きたいと思ったことに替わりはないしね」
 藤岡は、話をしながらも吹くことをやめる気配はない。どうやら透の練習につき合っている間中、吹きたいという欲求を抑えていたようだ。透に聴かせるために吹いているわけではないようなので、改まって聴く姿勢は取らず、会話を継続する。
「じゃあ、なんで聞いたんです?」
 また短な曲を吹き終えて、藤岡が答えた。
「興味があったから」
「興味? それだけ?」
「うん」
 それだけのために、なんであんなに答えを選ばねばならなかったのか、と透は脱力した。
 今度は少し長めのメロディーをゆるやかに吹き終えた藤岡に、重ねて問いかける。
「先輩はなんでオーボエを始めたんですか?」
「俺? 俺もタイミングの問題やなぁ。吹奏楽部に入ったはいいけど、別にこれといってやりたい楽器があったわけじゃなかった。で、たまたま人の少なかったオーボエにって感じ」
「吹奏楽はどうして?」
「中学からなんだけどな、俺。運動部には入りたくなかったのよ。あの泥まみれ埃まみれなのがイヤでさ。あと、先輩後輩関係のギッチギチしたのもイヤやった。かといって、活動してるんかどうかもわからん適当な文化部入っておくのもイヤで。吹奏楽って活動の密度は運動部並みにしっかりしてるから、それで吹奏楽」
 なんにせよ、と藤岡は言葉を継ぐ。
「理由なんていつも明確なもんやないやろ。街歩いててさ、別に腹が減ってなくてもうまそうだなーと思ってたこ焼き買ってたりするし、めちゃくちゃ好みだとか思って、会ったその日に告白しちゃったりするわけ」
 その例えには、思わず吹いた。やったことあるんですか、と尋ねると、昔な、と返ってきた。
「だから、別に恥じることはないで。俺が怒ることもない。偶然の出会いなんてドラマチックかつロマンチックでええやん」
「でも、俺は自分の鳴らしたい音がわかりません。それは、きっと、オーボエを吹くことに理由がないからで……」
 そう、透が零すと、藤岡は一瞬考え込んだ後、足元のスタンドに楽器を置いて、透に向き直った。
「朱音ちゃんが、鳴らしたい音を探せって言ったんやな」
「はい」
 透が首肯すると、藤岡は大きなため息をついた。朱音ちゃんなりに最善かつ最短の道を考えたんだろうけどな、と呟く。
「朱音ちゃんは最初から彼女の理想の音色を持ってたから、それをイメージして吹いていくのがいちばん手っ取り早かった。でも、松山はそれすらまだないやろ。まっさらや」
 どうしていいのかわからず、透は俯いた。何もない、ということが恥ずかしい。
「松山、勝手に落ちるな。別にお前は間違ってないから。松山は、これから、吹きながら探したらいい。自分の音と、俺たちやいろんな人の音を聴いて、自分に出来ることと出来ないこととを見比べながら自分の音を探せ」
 膝を突き合わせた藤岡が、透をのぞき込むように、慰撫するように話す。
「理想を明確に持ってりゃいいってもんじゃないよ。朱音ちゃんはそれがはっきりしすぎてて、あれはあれで苦しんでる」
 顔を上げると、藤岡の怒ったような顔があった。
「オーボエを吹く理由? そんなん、好きだから、吹きたいから、で別にえぇやん。松山は、吹きたくないのに吹いてるのか?」
「そんなことないです」
「なら、それでいいよ。吹きたいと思ったのなら、その気持ちだけ大事にしとけ」
「はい」
 理由など問わない。ただオーボエに惹かれて選んだその事実だけを、藤岡は必要とする。朱音の視線先にいたのはこういう人か。透の中の何かがストンと納得した。
「それにな、音は音色だけやない。音の形もイメージしてみろ。オーボエの音なんて知らなくても、音の形ならイメージできると思うよ」
「音の形?」
 ピンとこなくて、透は問い返した。
「音の出だしと終わりの形をとりあえずは意識することかな。ベタっと舌をつくのと、もっと柔らかく舌をつくのとでは、音の印象がだいぶ違う」
 スタンドに立ててあった楽器を取り上げて、藤岡が実演してくれる。
「朱音ちゃんの言った『音のイメージ』には、こっちもちゃんと含まれてるはずだよ」
 まだ分解されたままで膝の上に乗っていた楽器を組み直した。
「休憩、終わりでいいです。続き、お願いします」
「おぅ」
 頷いた藤岡が、止まっていたメトロノームのスイッチを入れた。規則正しいリズムが再び刻まれていく。

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