1st Movement

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 正規の終了時間から十分は余裕でオーバーしている。初回からこんなにみっちりと講義されるとは思っていなかった。学期最初の講義はどれもオリエンテーションで、大抵は三十分、長くても一時間で終わると聞いていたのに。大体時間オーバーなんて反則だろう。大学とはこんな横暴は許されるところなのか、と透は心の中でひたすら抗議を連ねたが、講義室前方の担当教官に届くはずもない。
 ノートに配布されたプリントを挟み込み、買ったばかりの辞書と教科書をまとめてカバンにしまう。高校時代までは置き勉専門だった透にとって、この一時間分だけで卒倒しそうな厚さと重さがある。カバンを肩にかければずしりと肩に食い込んだ。
 すでに学生食堂は満杯状態だろう。かといって生協売店はもはや品切れだろうし、学食前の行列に並ぶことを覚悟しなければならない。まだ短い大学生活の中でも、それは学習していた。食事にありつけるのは何分後か。慣れない一人暮らしで食パンとコーヒーだけの朝食の透の腹は、ずいぶん前から悲鳴を上げている。
 長い待ち時間の道連れを歩きながら探す。薄暗い廊下に出たところで、立ち止まって携帯電話を操っている久保江という同級生を見つけ、目標を定めた。
「久保江」
 よぉ、と声をかけられて静也はパタンと携帯を畳んで尻ポケットにしまい、飯? と透に尋ねる。思わず噴出した透に、静也は怪訝な目を向けた。
「違ったか」
「いや、違わないよ。でも、『飯行かない?』って声かけようとしてたからさ」
 食べ盛りのこの年代、昼時に考えることは皆同じということか。
 昼時、学生食堂や生協売店のある学生会館の人口密度は急激に上昇する。校舎から出るなり、学食に連なる行列が会館の外にまで溢れ出しているのが視界に入った。
「わかっちゃいるけど、これって結構ショッキングな光景だよなぁ」
 大袈裟に肩を落として見せる静也に、透は盛大なため息を返した。
「俺さぁ、次、文学部棟の大講義室なんだけど」
「うげ。山の上じゃん。間に合うのか?」
「ま、様子見て、駄目なら売店行くよ」
 とはいえ、売店ではまともな食料にはありつけそうもなく、できれば学食できちんと腹を満たしたい。
 一見して全く動いていないように見えた行列は、建物に吸い込まれるのと同じペースで伸びていた。動きがないわけではないことに多少の安堵を覚えつつ、最後尾に並ぶ。
 柔らかな音楽が微かに聴こえた。
 そこに殺到してきたのはサークル勧誘のビラ配りである。明らかに関心のないサークルは適当にあしらいつつ、いくつかの勧誘ビラを受け取った。暇つぶしに眺めてみる。
「松山は何かサークル入るつもりなのか?」
 静也は興味なく受け取ったビラを端からカバンに突っ込みながら尋ねた。
「久保江は?」
「んー、面白そうなのがあれば入ってもいいけどな。バイトもしたいし」
 ふぅん、と答えて透は手の中のビラからテニスサークルのものをいくつか取り上げて見比べる。
「テニス?」
「うん」
「やってたの?」
「高校までテニス部」
「へぇ。上手い?」
「さぁ、どうだろうね」
 高校三年の夏は県大会まで行った。今はどれだけできるのか、正直わからない。
 突然黙りこくってしまった透に、静也は慌てた。
「え、何? 俺、何か悪いこと言った?」
「……あぁ、いや、なんでもない」
 のろのろと動く列に着いて一歩ずつ進んだ。
 ようやくたどり着いた学生会館の入り口で、弦楽器を弾く男の姿を見つけた。微かに聴こえてきていた音楽の正体が生演奏であったことを知る。
「あれ、放送じゃないんだ」
 へぇぇ、と感心したように静也が言った。
「ヴァイオリン、だよな、あれ。あと、チェロ? 生で見るの始めてだよ、俺」
 男の脇では女が大振りの楽器を弾いている。傍目にも息の合った演奏は、とても気持ちのよいもので、空腹の苛立ちが少しは緩んだような気がする。
 一曲を弾き終えてヴァイオリンを肩から下ろすと、男は優雅にお辞儀をした。辺りから疎らに拍手が起こる。透と静也もパチパチと手を打ち鳴らした。
 男は隣りの女と一言交わして、またヴァイオリンを構える。そのすっくとした立ち姿がたまらなく優美なものに見える。続いて響いたのは、さっきまでの曲とは打って変わって空気を切り裂くような鋭い音で、静也の身体がビクリと震えるのが隣りに立つ透にもはっきりとわかった。もしかしたら透の身体もそんな風に震えていたかもしれない。
 和やかな空気を一瞬にして引き締める鋭さ。二人の奏でる音が辺りの空気を支配している。
「すっげぇ……」
 静也が呆然と彼らを見つめながら呟く。列が動いて彼らが透たちの後方に移っても、静也は振り向き振り向きしながら彼らから目を離せないでいた。そんな静也にビラの束を抱えた女が近づいてきて、ビラを差し出した。
「興味持ってくれたなら、明日の午後、新歓コンサートがあるから聴きに来ない?」
 演奏する二人から目を離そうとしない静也に代わって、透が女からビラを受け取った。ビラには「管弦楽団」の文字が並んでいる。
「初心者大歓迎だし、気軽に覗いてみてね。入る入らないは関係なく、コンサートを聴きに来てもらえればそれでいいから」
 女がにこりと微笑む。
「彼、明日も演奏するよ」
 静也に向かってそう言って、女は次のターゲットを求めて離れていった。
 激しい曲調の曲が終わって、さっきよりも大きな拍手が巻き起こった。静也も盛大に手を打ち鳴らした。
 演奏は二人が食堂に入っても続き、昼休みの間中鳴っていた。
 ようやく配食カウンターにたどり着き、定食に何品か副食を加えて会計を済ませ、空いた席を探す。なんとか滑り込んだ席でも静也は、微かに聴こえる演奏の方を眺めては切なげなため息を漏らした。そんな静也に、透がさきほどもらったビラの一枚を差し出した。
「明日新歓コンサートだって。行けば?」
「うん。……お前も行かねぇ?」
「なんで?」
「だって俺、音楽なんて全然わからないし。それで一人で行くってのはさぁ……」
 歯切れの悪い静也の心情はわからないでもないが、透とて音楽はほとんど興味がない。クラシック音楽なんて尚更だ。
「行きたいなら行けばいいじゃないか。別に一人でも大丈夫だと思うよ」
「そう言わずに。な、頼むよ」
 拝み倒しそうな静也を無視して、透は定食をかき込む。午後の講義時間が近づいていて、悠長にしゃべっている暇はないのだ。
「なぁ、松山ぁ。どうせ暇だろ?」
 尚も食い下がる静也が鬱陶しくて、透は曖昧に頷いてしまった。ぱぁと明るくなった静也の顔を、透は飯をかき込むのに夢中で見ていなかった。

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