1st Movement

8

 膝の関節が緩んでいる不安感が常にある。しかし痛みを感じるようなことはほとんどなく、次の日には日常生活に戻れた。週末が明ける頃には膝の違和感にも慣れてしまって、何もなかったように大学へ向かう。
 教室で顔を合わせた久保江は、土日もオーケストラの練習を見に行っていたらしく、暇さえあれば香月のことを話している。
「すっげー格好いいんだよ、香月先輩。他の人が弾いてるのと、もう、音が違うね。別格っていうの?」
 しゃべり続ける久保江に適当に相槌を返しながら階段を下りていて、透は不意にバランスを崩して転んだ。転がり落ちそうになって慌ててついた手がヒリヒリする。
 この日、透はもう一度転んだ。文学部棟から下る坂道の途中で、ふいに膝がカクンと外れたような感じがして、気がついたら転倒していた。
 二度の転倒を隣りで見ていた久保江が、不思議なものを見たような眼で透を見た。
「どうした? なんか変だぞ」
「なんでもない、よ。ちょっとボーっとしてただけだ」
 久保江には笑ってみせたが、不安が止め処なく溢れてくる。
 高校三年の夏が怪我で終わったとき、もう競技としてのテニスに復帰することはないと思った。だから再建手術も必要ないと思った。処置が早かったこともあって、保存的療法もうまく行っていた。軽い運動なら問題ない、と言われた。それで十分だと思っていた。
 それなのに、これでは日常生活すらが不安ではないか。痛みはないとは言っても、どこで何が転倒のきっかけになるかわからない。もう元には戻れないかもしれない。常に神経の張り詰めた状態は辛かった。
 再建手術をすれば戻れるのかもしれない。しかし、しきりに再建手術を勧めた両親に対して必要ないと言ってそれを撥ね退けた手前、どんな顔でそれを請えるだろう。それに、再建手術をしたからといって、傷めたものが元に戻るわけではないのだ。
 体育の授業で同級生たちがバスケットに興じるのを眺めながら、心の中にぽっかりと穴が空いたような気がしていた。本当に自分の中に空洞ができたような、そんな感覚があり得るという事実が、さらに透を驚愕させた。
「なぁ、久保江」
「ん?」
 隣りに立つ久保江をぼんやりと呼ぶ。
「今日もオーケストラに行くのか?」
「行くよ。今日から香月先輩がヴァイオリンのレッスンをしてくれるんだって。何で?」
「俺も行く」
「はぁ? 何で?」
 久保江が信じられないものを見たというような表情で、透の頭の天辺から足の先まで、視線を往復させた。
 それには答えず、
「咲田さん、いるかなぁ」
と透は呟く。
 朱音に会って、オーケストラへ入団したいと告げるつもりだった。

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