1st Movement

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 明日と明後日は全体練習のある日だから、よかったら見学に来てね。入団のことはとりあえず考えなくていいから。
 朱音はそう言って、笑顔で透を見送ってくれた。香月にヴァイオリンを持たせてもらってご満悦な静也は置き去りにし、先に帰る旨、メールだけ打っておく。
 向かうテニスコートは旧講堂のある旧教養地区とは道路を挟んだ向こう側、新校地にあった。
 構内のテニスコート四面は、放課後は体育会テニス部の専有となり、その他数多あるテニスサークルは、テニスコート周辺――つまり、サークル施設に近い通用門付近――を集合場所に、市内各所にある公営、私営のテニスコートへと散っていくのだ。
 だからもう、透が目当てとする人々がそこにはいないことはわかっていた。
 それでも、ラケットバッグを背負って、テニスコートすら目にしないまま帰るのは嫌だった。せめて、一目だけでも、テニスの片鱗にだけでも、触れてから帰ろう。
 フェンス越しに見るコートは質のいいオムニコートだ。シューズがコートを捕らえる音がいい。中・高時代に透たちが使っていたコートは、曲がりなりにも総体常連の強豪校のくせに水捌けの悪いクレイコートで、整備には苦労させられた。県大会の会場が良質のオムニコートで、初めてそのコートを踏んだときにはずいぶんと感激したものだ。
 コートを廻るフェンスから少し離れたところから、透はテニス部の練習を見つめた。地方ブロック大会をいくつか勝てそうなプレイヤーが二、三人いる。しかしそれ以外は県大会で一勝できるかどうか、といった雰囲気。強豪だった中・高時代のテニス部とは、自ずから空気が違う。
 部内ではトップクラスだろうプレイヤーが、透に最も近いコートでゲームをしている。どちらもいいフットワークをしているが、奥のサイドにいるプレイヤーの方がネットプレーの器用さでややリードしている。手前のプレイヤーはパワーはあるもののネットプレーは苦手のようで、何度もボレーをネットに引っ掛けては、首を捻っている。
 その仕草には既視感があった。
「あれぇ、松山?」
 ふいにそのプレイヤーから呼ばれた。
「は?」
「やっぱ松山だ。俺だよ、俺、阿部!」
 駆け寄ってきながらその男がキャップを脱いだ。おかげでようやく顔が確認できる。
「え、マサ先輩?」
 中・高時代の先輩の阿部雅浩だった。
「どうりで」
 言って、透はくすりと笑った。
「なんだよ」
「何となく見覚えのある癖を持った人がいるなぁ、と思ってたんで。相変わらずネットプレーは苦手ですか」
「あー、お前も相変わらず性格悪そう。少しは再会を喜ぶとかしろよ」
 フェンス際まで寄った透に、そのフェンスの隙間から阿部の指が伸びてきて額を弾かれた。
「ってぇ」
 叫んだのはデコピンを喰らった透ではなく、薬指をフェンスに強かに打ちつけた阿部の方である。
「そんなところにいられたんじゃ話にならない。こっちに入って来いよ」
 阿部がフェンスの扉状になった場所をラケットで指し、顎をしゃくった。
「いや、今日はちょっと……」
「何、遠慮してんの。ラケットバッグまで背負って、遠慮も何もあるかってんだ。早くしろよー」
 コートの奥から阿部を呼ぶ声がして、阿部はさっさとそちらに向かって走っていってしまった。
 取り残されて、そのまま帰ってしまおうかと思ったが、いくらなんでもそれは出来ないよな、と思い返してフェンスをくぐる。阿部は高校時代、一番近くにいて、一番可愛がってくれた先輩だった。だから、思いがけない再会に喜ぶ気持ちがないわけではないのだ。
 けれど、阿部は阿部が卒業した後の透を知らない。部の誰かの口から何かを聞かされていたとして、その彼らさえ知らない事実がある。それを透は、阿部にこそ聞かせたくなかった。
 なんとか、誤魔化せないかな。わずかな期待を自分にかけて、コートを踏んだ。
 阿部に何人かの部員を紹介されて、透も簡単に挨拶を返した。強豪校出身の阿部の後輩、というだけで部員たちは羨望の眼差しを向けてくる。それは決して居心地の悪いものではなかったけれど、透の現実を映してはいないことに後ろめたさを覚える。
「先輩、ちょっと」
 挨拶が一段落したところで、透は阿部を引っ張ってフェンス際に移動した。
「何?」
「俺、部に入る気ないんですけど」
「はぁ? 冗談だろ?」
「本気です」
「じゃあ何でラケットバッグ背負って歩いてるんだよ」
「サークルにでも入ろうと思って」
「なんだ、それは。お前の実力でサークルなんて入って、何がおもしろいんだよ」
 阿部の口調が若干の呆れと怒りを含んでくる。
「……ブランクがあるから、もうそんなに出来ないですよ。それに、大学入ってまで、ガツガツとテニスばっかりやってるのもなー、って思って」
「なんだと?」
 透の言葉に阿部の怒気が上がる。このまま怒って、呆れて、それでもう構わないでいてくれればいい。そうすれば透も、テニスへの未練を捨ててしまえるかもしれない。

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