1st Movement

5

 終演後は、見学の新入生と団員が入り乱れての交流会がセッティングされていた。興味を持った楽器に実際に触れてもらおうという趣向らしい。
 静也にはもう十分につき合ったはずで、そろそろ本命のテニスサークルへ向かおうと透は腰を上げた。
「あれ、もう帰っちゃうの?」
 声の聞こえた方に首を捻ると、オーボエを手にしたその人が立っていた。
「あ、いや、えと……」
 何となく立ち去りがたい気持ちにさせられて、透は手をかけていたラケットバッグを再び床に下ろした。
 彼女は咲田朱音と名乗った。文学部の三年だという。
「松山です。こっちは久保江。俺らも文学部なんです」
「そうなの? 学科は? 私は社会学科」
「あ…、史学です」
「ふぅん。そうなんだぁ。上まで登るの大変でしょ」
 透が大きく頷くと、朱音があはははと笑った。
「今日は来てくれてありがとう。最後まで残ってくれたけど、どう、少しは楽しんでもらえた?」
「はい。クラシックなんて、って思ってたけど、すごいよかったです。ちょっと意外だった、です」
 そう、と朱音は嬉しそうに頷いて、久保江くんは? と静也に尋ねる。
「あ、俺も楽しかったです。あの、ヴァイオリンの人、昨日学食の前で弾いてた人……」
 口ごもりながらも気になって仕方ない人について口にした静也に、透はなんとなくホッとした気分になった。
「あぁ、香月くん。彼、すごいでしょ」
「はい。すごいカッコよくて、すごいなぁって……」
 言いながら、静也の視線はキョロキョロと落ち着きなく、周囲を彷徨った。
「こいつ、昨日学食前であのヴァイオリンを聴いてから、ぞっこんなんです。それで今日も聴きに来るって言って」
「そうなの?」
 朱音は可笑しそうにクスリと笑って、それからホール内をぐるりと見回し、よく響く声で「香月くん」と叫んだ。人波からひょいと香月が頭を出す。それを朱音が手招きして、呼び寄せた。
「香月くん、こちら久保江くん。昨日のお昼のを聴いて、香月くんのファンになっちゃったみたいだよ」
 ふふふ、と笑いながら朱音が言う。
「マジ? それはどうも」
 ごく自然に差し出された手を、静也は内心で狂喜しながら握った。
「あ、あの、……」
 言葉が続かない。
 そんな静也を香月は笑みを浮かべながら眺めて、それから言った。
「ちょっと持ってみる?」
 そう言って、手にしていたヴァイオリンをひょいと掲げて見せる。
「いいんですか?」
「もちろん。そのための交流会なんやから」
 差し出されたヴァイオリンに恐る恐る手を伸ばす。受け取って、見よう見まねで構えてみた。思いのほか、軽い。
 ぎこちなくヴァイオリンを構えた静也に、香月が手を添えて容を整えた。
「どう?」
 静也が透に尋ねた。
「ちょっとそれっぽい感じ」
 透が答えると、静也が照れくさそうに、へへ、と笑った。
 そんな二人を朱音がにこにこと眺めている。
 ついでやから、と言われ、静也は香月に手を添えられたまま、弦の上に弓を走らせ始める。静也が初めて奏でたヴァイオリンは、とても素朴な音がした。
「松山くんは、久保江くんの付き添いかな?」
 突然朱音に問われて、透は少し困惑する。
「あ、いや、えーと、……」
「別に構わないんだよ、それでも」
 先ほどから変わらない笑顔で朱音は言った。
「でも、さっきの演奏、すごくよかったです。えと、オーボエが二人と、もう一つの楽器のやつ」
 あぁ、と頷いて、朱音が破顔した。
「ありがと。あれはコーラングレっていうの。うちの先輩は二人ともうまいからね。結構聴きごたえあったでしょ」
 私はついていくのも精一杯だけどね。そう言いながら、朱音はひどく誇らしげだった。
「ね、松山くんもちょっと楽器に触ってみる?」
 朱音が軽くオーボエを掲げて、小首を傾げてみせた。
「俺は、別に…」
 入るつもりはないですから、という科白を透は飲み込む。
「入団するしないは気にしない。オーボエ持ってみる機会なんて、これを逃したら、きっと一生ないよ?」
 悪戯っ子のような目で促されて、透はようやく頷いた。
 じゃあ、ちょっと持ってて、と言って、朱音は簡単に透の手に楽器を預ける。そして自分は手に提げていた小さな巾着から水を張ったフィルムケースを取り出し、ずっと左手で弄んでいた小さなものを軽く水に浸した。それから透の手から楽器を取り上げ、その小さなものを楽器の先端に刺し込む。
「はい」
 改めて朱音が透に楽器を差し出した。
 香月が静也にしていたように、朱音も手を添えて持ち方を教えてくれる。
 持ってみると、その細身から想像していたよりも重みがあった。銀色のキーは複雑に入り組んでいて、より繊細なイメージを受ける。先端のリードと呼ばれたパーツは脆そうで、咥えることに躊躇を覚える。
「結構重いんですね」
「んー、そうだね。華奢だから軽そうにも見えるけど、印象よりは重いかも」
 右手の親指一本で支えているのが怖くて、早々に透は楽器を朱音の手に戻してしまった。
「じゃあ、これだけで吹いてみて」
 そう言って渡されたのは、楽器の先端から取り外された、あの小さなもの。
「これはリード。これが音の正体」
 管それ自体は音を響かせてるだけなの。
 もう一本取り出したリードを咥えて、朱音が見本を見せた。その容を真似て、透も咥えてみた。
 恐る恐る息を吹き込んでも、スースーと息が通り抜けるだけ。
「もっと思い切って」
 言われて思い切って息を送り込むと、ピィと細く情けない音がした。
「おぉ、鳴った。オーボエってリード鳴らすまでが大変なんだよ」
 鳴らない人はどこまで言っても鳴らないしね。
 そう言って、朱音は嬉しそうに微笑んだ。

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