1st Movement

7

 阿部が食い入るように透の顔を見つめてくる。その眼にこめられた力が徐々に緩んでいき、そして重苦しく阿部が口を開いた。
「松山、お前さぁ、何かあった?」
 意外な展開に、透は阿部の顔をまじまじと見つめ返した。
「何で、そんなこと……」
「だって、松山らしくないから。お前さぁ、いくら一年ばかり間が空いてようとも、散々組んできた俺を見くびってない?」
 詰るような阿部の視線が、痛い。
「怪我、したんです、昨年の県大会で。ちょっと膝を痛めちゃって」
 さも、何でもないことのように口にした。
「それでみんなよりも一ヶ月ばかり早く引退するハメになるわ、受験終わるまでろくに体育も出来ないわ、で、人よりもブランクが空いちゃったんです」
 何故かはわからないけれど、言い訳染みた言葉が口を衝いて流れ出ていく。
「これだけブランクがあると前みたいに動けないだろうなーと思って。ほら、俺って完璧主義なんで、思うように動けないような無様な姿なんて晒したくないんですよ。だったら、お気楽にサークルで楽しもうかと。どうせ、これからどんどん衰えていくんだし、高校まで散々テニス三昧できたんだから、もういいかなって」
 そんな言葉で阿部が納得するとは思わなかった。けれど、流れ出る言葉が止められない。
「怪我、」
「は?」
 止めどない透の言葉を阿部が遮った。
「膝の怪我、もういいのか?」
 覗きこむようにする阿部と一瞬視線が交錯して、透はそれをそっと避けた。
「大丈夫ですよ。今だって普通に歩いてたじゃないですか」
「そうか。なら、よかった」
 そう言って、阿部は口を噤んでフェンスにもたれた。揺れたフェンスがカシャカシャと音を立てる。
「……テニス、出来るんだよな?」
「あ、はい」
 阿部の意図を図りかねた。
「なら、少しでいいから打っていけよ。いいだろ?」
 有無を言わさない、強い口調だった。
「俺、部には」
「それはいいよ、別に」
 ぶっきらぼうに阿部が言う。
「久しぶりにお前と打ちたいだけだからさ。それに、身体が思い出せば、お前の気も変わるかもしれない」
 な、と言って、阿部が再度、透の顔を覗きこんだ。
 透はこくりと頷いた。それで気が済むのなら、そうすべきなのだろうと思う。どうせ事実に逆らうことはできないのだ。
 着替えてコートに立った。着け慣れない右膝のサポーターが気になるが、無防備にしている方が怖かった。そのサポーターに、複雑な色を浮かべた阿部の視線がコートの向こう側から注がれているのが、わかる。
 何度か素振りをしながら右膝に体重を乗せて見せて、透は阿部に笑いかけた。
「大丈夫ですよ、そんな心配そうな顔しなくても。一応ちゃんと治ってるそうですから」
 ただ、お手柔らかに頼みますよ、と言い置いて、一打目を放った。
 短く緩い球が、丁寧に左右に振り分けられながら打ち込まれてくる。次第に距離が伸び、そして振り幅が広がる。
 透の身体は、ちゃんとそれに着いて行けた。驚くほどスムーズに身体はテニスの動きに馴染んだ。
「ちゃんと動けるじゃないか」
 阿部が嬉しそうに声を上げた。それと同時に阿部の球がズシリと重くなる。少しずつなら、もう少し大丈夫かな。そんな気持ちが湧いてきて、それに応えるように透も打ち返す球威を上げた。腕に、脚に、感じる打球の重みが、懐かしく、そして心地良かった。
 コートサイドの部員たちの視線が、二人が駆けるコートに集中した。次第にざわめきが増し、そして、コート上の実戦度が上がるにつれて、今度は静まり返っていった。
 もう、コートを蹴る音と、ラケットがボールを跳ね返す打撃音と、自分の息遣いしか聴こえない。上がる呼吸と滲む汗が、目の前のボールを追う以外のことを忘れさせた。
 ステップを踏んで返球を待つ。広く空いていたバックサイドに深く打ち込まれた球を追って大きく踏み込み、軸足いっぱいに重心を乗せた。大きく息を吸い込み、軸足でターンしながら息を詰めてインパクトの瞬間を一瞬待つ。
 パワーヒッターの阿部の打球は重い。それをラケットを両手で握って打ち返す。
 その瞬間、ガクッという衝撃と共に身体が傾いで、激痛が突き抜けた。踏ん張ろうとして叶わず、透は声もなく、そのままコートに倒れ込んだ。
 詰めていた息が喉をヒュッと鳴らす。
 ネットにかかって跳ね返った球が目の前をコロコロと転がっていった。そのボールの黄色が視界の端で滲んだ。
「松山っ!」
 阿部の上擦った声が聞こえる。駆け寄ってくる足音がして、太く日に焼けた腕が差し出された。
「大丈夫か?」
 そんな言葉に意味がないと知りつつも、それ以外にかける言葉を持たない。阿部の声には困惑の色が浮かんでいた。
「立てるか? とりあえずベンチへ」
 阿部の太く日に焼けた腕に縋って立ち上がった。膝に力が入らず、体重を支えられない。瞬間的な激痛は去ったが、痛みはまだ、激しかった。透の脇に腕が差し入れられて、強い力で引き上げられる。
「先輩……」
 支えられてよろよろと歩きながら、透は阿部の横顔を見上げた。
「怪我って、靭帯か?」
 こくりと透は頷いた。
「治ってたはず、なんです。軽い運動なら問題ないって。だから、少しならいいかと思ったんですけど」
「そう、か。ごめんな、無理に誘って」
 阿部は透を見ない。ちゃんと怪我のことを告げなかったことを、阿部は怒っているのだ。膝の痛みよりも、そんな阿部の横顔が怖くて、涙が滲んだ。
「いえ、俺が調子に乗ってペース上げたから……」
 再度見上げた阿部は、変わらずじっと前だけを見つめていた。ただ、透を支える腕にぐっと力が込められる。
 すみません。透は胸の内で阿部に、何度も詫びの言葉を繰り返した。

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