1st Movement

4

「えーっと、まだお客さんが少ないんですけど、一応時間なので始めさせてもらいます」
 司会らしい男がそう宣言して、コンサートが始まった。確かに客席はガラガラで、透たちの他には三人組の女子しかいない。
 大小様々の弦楽器を抱えた五人の男女が脇から入場してきて、代わりに脇に退いた司会者が、客たちを促すようにパンパンと手を叩いた。
 五人目の男は例のヴァイオリン男で、静也は身を乗り出すようにして拍手を送った。そんな静也の存在が透には憎たらしいほど恥ずかしい。
 疎らな拍手はすぐに退いて、演奏が始まった。
 曲名は紹介されなかったけれども、透には聞き覚えがあった。中学の音楽の時間に聴かされて、曲名が定期考査に出るというので必死に覚えた。あれは、そう、モーツァルトの「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」。試験の問題は流れる曲を聴いて作曲者と曲名を書くというもので、この曲が流れてきた途端、試験中だというのに猛烈な眠気に襲われて、答案を仕上げるのに苦労した。
 あの時は綺麗なばかりの緩やかな曲調が酷く眠気を誘った。けれど、目の前で演奏されるそれは、記憶の中のそれとは全然違っていた。眠気など一刀両断に切り捨ててしまうような、そんな鋭利さ。時折訪れる穏やかな曲想すらも即座に引き裂いていく荒々しい演奏。しかし決して深いではなく、どこか小気味よさを覚える。
 興味なんてなかったはずの音楽に、引きずり込まれた。
 我に返ったのは、静也が気合の入った拍手を送り始めたからだ。最後の音が鳴って奏者たちの手にする弓が弦から離れた瞬間、静也は両手を打ち鳴らした。音楽に合わせてその身を揺らしながら弾くその人は、他のメンバーとは圧倒的な差を持って、格好がよかった。
 ただ、奏者たちの動きが止まっても余韻の尻尾が漂っているようで、透はそれを追いかけていたかったのに、拍手の音が邪魔をする。
 客席を遠巻きにする他の団員たちも含めた拍手に、出遅れたことを何となく気まずく思って、透も負けじと重なった。
 それを受ける奏者たちは、一応に額に汗を浮かべていて、中には肩を軽く上下させている者もいる。ただ一人、例のヴァイオリン弾きだけが涼しい顔に薄く笑みをたたえて拍手を受けていた。
 簡単な楽器紹介の後、弦楽器ばかりで編成を少しずつ変えながら、あるいはピアノ伴奏を加えての演奏が続いた。クラシックばかりなのかと思っていたらテレビ番組のテーマ曲やポップスのアレンジなども含まれていて想像以上に楽しめるプログラムになっている。
 「入ってください!」という意識諸出しの新入生「勧誘」コンサートは中学・高校時代の吹奏楽部の演奏で味わってきた。けれどこれは全然、そんなものではない。素直に、楽しい。
 十分間のトイレ休憩を挿んで、後半は管楽器中心の構成になった。中・高時代には校内に吹奏楽部があったから、こちらは比較的見慣れた楽器が多い。
 いつの間にか観客も増えていて、三十脚ほどの椅子はほぼ埋まっていた。
 フルート、クラリネット、トランペット、……。出迎えてくれた人の手にしていた管楽器はオーボエというのだと、透は楽器紹介で初めて知った。
 その彼女が同じ楽器を持った男と、それよりもやや長く丸みを帯びたフォルムの楽器を持った女に挟まれて、透の目前に立った。ゆとりのある表情の左右の二人に比べて、彼女はとても緊張しているように見える。
 間近に見るその楽器は、ほっそりとした黒い管体を埋め尽くすかのように銀色のキーを纏っている。高い天井からの照明の光を乱反射して、それはとても美しかった。
 男の合図で始まった曲は、最初に聴いたヴァイオリン弾きのモーツァルトのようにまさに「正統派」というべき音楽だった。だが、その音の持つ独特の雰囲気が興味をそそる。どこかオリエンタルな不思議な音がした。転がるような音の動きは、指の動きから察するに、右端に立つ男のものだろう。胸騒ぎのするような色気のある音。
 透の耳が引き寄せられたのは、それではないもう一つの音。どこかたどたどしさの抜けない音の運びで、それは素人の透の耳にも明確な差を持って聴こえてくる。それでも、男が奏でているのだろう音を必死で追いかけ、絡みつこうとする意思のようなものを感じて、透には好ましかった。耳を澄ますと、やや異なる色彩の音色が、その二つの音を支えるように優しく流れている。
 短いその曲が終わるのを、透は惜しいと思った。あの音をもう少しだけ、聴いていたかった。
 コンサートも中盤を過ぎてやや中だるみ気味のところ、金管楽器の華やかなファンファーレが再度盛り上げ、そして最後は有名なゲーム音楽で盛大に締めくくられた。数歩先のフルオーケストラは想像以上の大迫力で、例のヴァイオリン弾きを目の前で堪能した静也はもちろん、当初は全く関心のなかった透も体内に充満するものを感じる。あまりの音量に少し頭がくらくらしたのだけれど、そんなことは瑣末事に過ぎなかった。
 演奏中、オーケストラの中央辺りでちらちらと揺れる黒い頭を、透はずっと見つめていた。それがたぶん、あのオーボエ吹きの人だと思った。けれど、前列に並ぶ弦楽器奏者や譜面台、指揮者に遮られて、よくは見えなかった。

Copyright (c) 2008 Rei Masaki All rights reserved.