1st Movement

3

 その気のなさそうな透を半ば引き摺るようにして学生食堂を出、ビラの地図を頼りに、静也は管弦楽団の練習場所へ向かった。
 ビラに記された管弦楽団の練習場所は共通教育A棟とB棟に囲われた中庭に建つ旧講堂。共通A棟での講義がいくつかあったから、建物自体は見たことがある。古ぼったいくせに、どこか気品の漂う木造の建物。窓の向こうに見た影の薄い建物。あれは管弦楽団の練習場所だったのかと何か納得を得た気分になった。
 共通A棟を横切って校舎と常緑樹の密度の高い垣根に囲まれた箱庭のような空間に出る。玄関ポーチの前に三人の男女がいる以外、あまりに人気が感じられない。何やら近寄りがたい雰囲気に、ここまで猪のような勢いで突き進んできた静也も足を止めずにはいられない。
「おい、あそこでいいんだよな」
 声音を落として隣りの透を伺うと、透は面倒臭そうに頷いた。
「お前が連れてきたんだろうが」
「じゃあ、なんでこんなに人気がないんだよ」
 言って、自分の発した言葉が八つ当たりに過ぎないことを知る。
 本当は無理に透をつき合わせる筋ではないことも了解していた。昨日の様子では透は管弦楽に関心がなさそうだったし、彼の背負った大きなラケットバッグは決して遊びでテニスをやってきたのではないことを示していた。その透を駄々をこねてまで同道したのは、偏に未知の世界に一人で踏み込む勇気がなかったからで、透を選んだのは単なる道行きである。
「俺に聞くな」
 不機嫌そうに言い捨てて、透が先に一歩を踏み出した。静也も慌ててそれに倣う。
 ジリと足元の荒い砂地が鳴った。その音に、ポーチ前にいた三人のうちの一人が顔を上げる。
「あ」
 静也が思わず声を上げた。
 その顔を上げた男の顔に見覚えがあった。昨日のヴァイオリン弾き。一瞬にして静也を捕らえたその人だった。
 クラシック音楽なんて趣味じゃないと思ってきた。確かに美しい音だけれど、温度のない、感情のない、空気のように手ごたえのない、退屈な存在。
 けれど、目が離せなかった。すらりと背筋を正し、肩に乗せたヴァイオリンに頬を寄せていた。その腕の先から繰り出される音にはその周囲何十メートル、あるいは何百メートルをも制圧するだろう力があった。あれが、なんのエフェクターも介さずに発せられたなんて、信じられない。
 その人が眼前にいる。何を言えばいいのかわからなくて、思わず透の腕をつかんだ。透が胡散臭げに眉を顰めている。らしくない、とでも思っているのだろう。この一週間のつき合いの中でこんな自分をさらけ出したことはない。どうせ小心者だよ、と静也は腐った気分になった。
 あぁ、とヴァイオリンの人が声を上げた。
「コンサートに来てくれたの?」
 こうして見ると、特に目立つところのない男だ、と静也は思う。街ですれ違ってもたぶん目を留めることはないだろう。
「まだみんな練習してて雑然としてるけど、中へどうぞ。一応お客さんが入れるようにはしてると思うから」
 扉が開かれると、外の静かさからは想像できないほど、騒々しかった。後に知ったことだが、屋外に全くといっていいほど音が漏れ出してこなかったのは、ぴっちりと閉められた窓とぐるりと廊下に取り囲まれた建物の構造に因るらしい。あまりの騒々しさに一歩を踏み出せずにいたら、その人の手で屋内に押し込まれてしまった。
 世界中の音をかき集めてきたような、滅茶苦茶な空間。中学の頃、音楽のリコーダーの授業って、そういえばこんな感じだったかもしれない、と静也は思う。けれど、管弦楽、オーケストラという語感からはひどくかけ離れている気がした。
 静也の一歩前で、透も固まっていた。透の場合、背負ったラケットバッグの大きさが余計に場違い感を強調していて、改めて静也は申し訳なく思う。透はといえば、できるだけその華奢な背中にラケットバッグを隠そうとでもいうのか、もぞもぞとしている。
 ま、飲み物の一本でもおごってやればいいか。気のいい友人はそれで許してくれるだろう。
 透の肩越しののぞき込んだ屋内は、外周がぐるりと廊下になっていて、その真ん中にバスケットコート一面くらいの部屋がある。奥には緞帳の下りたステージがあり、この建物がかつて講堂であったことを再確認させた。
 二人揃って辺りをキョロキョロと見渡していることを、ふと、自覚する。いい歳した男が二人、異界に放り込まれた気分でドギマギしているのだと思えば、自然と笑いが込み上がった。口元に留めたつもりの笑いを目敏く透に見つけられて睨まれる。首を竦めれば、ふんと透は視線を巡らし、そのまま廊下の向こう側、両開きの引き戸の影に半身がちらちらと見え隠れする人影に睨みつけるような視線を放った。
 その眼力が効いたのか、引き戸の影から女の顔がひょこりと覗いた。所在なげな透と静也を見つけて、その女が慌てたような表情を見せる。そして、パタパタと足音を立てながら、大した距離もないのに駆け寄ってきた。
「えぇと、一年生? お客さん?」
 そう言いながら、楽器を持った右手を器用に使って左の袖口をめくり、腕時計を確認している。
「うっわ、もうこんな時間だ。ごめんねぇ、放ったらかしにして。どうぞ、上がってください」
 玄関の隅の下駄箱からスリッパを取り上げて、並べてくれた。
「中で座ってて。コンサートはちゃんと時間通りに始めるから」
 そう言ってその女は廊下をパタパタと走っていく。
 その後姿をぼんやりと見送っている透の腕を引いて、今度は静也が一歩目を踏み出した。
 室内は、向かって左側半分には整然と並べられた三十脚ほどのパイプ椅子。右手奥にはグランドピアノが一台あって、その周囲にバラバラと譜面台が置かれている。客席にステージということだろう。
 本物のステージがあるのだからそこを使えばいいのに。
 踏み込んでしまえば躊躇もなく、そんなどうでもいいことに考えを巡らせる余裕も出来た。
 視界の端に例のヴァイオリン弾きを認めて、静也の目が輝く。それ見て透は、一日のため息の回数記録をさらに更新したのだった。

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