1st Movement

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 翌日の金曜日は、教職員の会議日で午後から講義はない。多くのサークルが格好の活動日と定めているらしかった。これで午前も空きコマとなれば晴れて三連休となるのだが、空きコマの操作がし易い上級生とは違って一年生はしっかり必修科目が詰め込まれていて休むわけにはいかない。
 学生にとってはまだまだ早朝といえる時間の教室は冷たい湿り気を帯びている。啜った鼻の奥がツンと痛んで、透は思わず顔を顰めた。
 まだ数人しかいない教室を見渡す。窓際の中央よりやや前寄りに席を定めて腰を落ち着けた。ドサッと足元に置いたのはラケットバッグである。午後からはいくつかのテニスサークルを回ってみるつもりだった。半年以上背負ったことのなかったラケットバッグの感触がなんだか嬉しい。
 高校三年の夏が終わって押し入れに突っ込んだままだったラケットバッグは、引越しのときにも開けられることなく下宿先に運ばれて、そしてクローゼットの奥に仕舞い込んであった。昨夜久しぶりに引っ張り出してジッパーを開ける瞬間、相当に痛んでいるのではないかとドキドキした。引き出したラケットもシューズもまともに手入れもせずに仕舞い込んだだけあってわずかに饐えた臭いが気になったものの、とりあえずは使えそうだった。シューズはさすがに気になったので、消臭スプレーをしてベランダに一晩干しておいた。
 つい、足元のラケットバッグに目を向けてしまう。
「朝から何にやけてるんだ?」
 不機嫌そうな声に頭を擡げると静也が仁王立ちでそこにいた。
「おはよう。なんだよ、朝から機嫌悪いな」
 むすっとしたまま隣りの席に着く静也の動きを追った。
「松山くん?」
 静也は険のある笑顔を透に向ける。
「キミの足元にある、それは何ですか」
「何って、見ての通りのテニスのラケットバッグだけど」
「そのくらい、見ればわかる」
 むっすりと静也が言い放つ。透には静也の不機嫌さの原因がさっぱりわからない。
「あーぁ、やっぱり覚えてないか」
 静也は肩を落として見せる。その仕草の大袈裟さに透が思わず身を退いた。
「な、なんだよ……」
「いや、いいです。キミは大学でのテニスライフを満喫してくれ給え」
 透に背を向けて、静也はそのまま机に突っ伏してしまった。その態勢のまま、教室に入ってきたクラスメイトに気のない挨拶を送る。
「どしたの、久保江。朝から元気ないやん」
「んー、松山に盛大に振られちゃってさぁ」
「それはお気の毒さま」
 松山、久保江をいじめるなよ、とそのクラスメイトはひらひらと手を振った。
「久保江」
「ん?」
「物騒な物言いはやめろ」
「だってぇ、松山くんが約束すっぽかそうとかするからぁ」
 器用に机の上で上体を反転させて、静也は透にしなを作ってみせた。
「気色悪い」
 一喝して、それから透は努めて真面目な表情で静也に向き直った。
「ほい」
 その透に静也がカバンから取り出した紙片を渡す。
「何?」
「昨日、一緒に行ってくれるって言った」
 見れば管弦学団の新歓ビラである。
「あー、……そんなこと言ったっけ、俺」
「言った」
「嘘だぁ」
「俺が『一緒に行ってくれ』って言ったら、お前はちゃんと頷いた」
「……それ、言ってないじゃないか」
 言われてみれば、そんなこともあったかもしれないなぁ、と透はのんびりと昨日の昼を思い返してみた。あの時は次の講義のために急いで昼飯をかき込むのに必死だったから、あまりよくは覚えていない。
「別に一人で行けばいいだろ」
 ビラを静也の手に戻しつつ透が言うと、静也は盛大なため息を吐いて、小さく、そうだな、と呟いた。
 教官が入室して、授業が始まる。時折じーっと向けられる静也の視線が気になって、透は授業に集中できない。鬱陶しい。それが一時間続き、移動した先の二限でも続いて、ついに透は折れた。
「わかったよ。行けばいいんだろ」
「ホント?」
「あぁ」
「よっしゃ」
 教官の目を盗んでのひそひそという会話のはずだったのに、静也の声が思わず大きくなって二人して教官に睨まれた。
 教官が黒板に向き直ったのを確認して、改めてひそひそと言葉を交す。
「ただし、コンサートが終わったら俺はテニスに行くぞ。それでいいな?」
 確かビラにはコンサートは一時間半の予定で、その後は団員との交流会と書かれていたはずだ。
「うー」
「あのなぁ。これでも結構譲歩したんだから、いいことにしろよ」
「……わかった」
 それからの静也はそわそわと落ち着かなかった。何がそんなに嬉しいんだか、と透はため息を吐いた。針のような視線を浴び続けるよりはマシかとも思うが、しかし結局この日の二時間は全く授業に集中できなかった。これならば最後まで突っぱね続けた方がよかったかとも思ったが、これも大学最初の友情のためだ。
「でもさぁ、なんでそんなに管弦楽団に行きたいわけ?」
 昨日よりもゆったりとした気分で学生食堂の列に並んで緩々と前に進みながら、透は静也に尋ねた。
「だって、昨日のあの人! めっちゃカッコよかったと思わないか?」  唾を飛ばしそうな勢いの静也の目はきょろきょろと落ち着きなく辺りを彷徨っている。
「ヴァイオリンの人?」 「そう。クラシックなんて眠いだけのつまらない音楽だと思ってたけどさ、全然違ったじゃん。すごい迫力で。ちょっと目から鱗だったよ」
 うっとりとした目をやや上方に向けている姿が透が抱いていた静也のイメージにそぐわなくて、なんとなくげんなりとした気分になる。
「で、入るのか?」
「……それはまだわからないけど。でも、とりあえずあの人はまた見たい」
 「聴きたい」ではなくて「見たい」か、と透はこの件に関して何度目かわからないため息を静也に隠れるようにして吐き出した。

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