朝食のスクランブルエッグ

 恭子さんの作る朝食には、必ずスクランブルエッグがつく。
 カーテンを透過する朝日の暖かな黄色の、スクランブルエッグ。
 塩コショウ。砂糖。刻んだ野菜やキノコたち。ベーコン。ケチャップやポン酢をかけたり。一日として同じ味に出会ったことはない。
 まどろむ僕の腕からそっと抜け出した恭子さんが、身支度を整え、キッチンに立つ気配を感じる。シュルシュルという音は、きっとエプロンの紐を結ぶ音。彼女のお気に入りの、つやつやとした素材の花柄のエプロンだろうか。冷蔵庫を開ける音。カチカチとコンロの火が点る音。
 そんな彼女の生み出す朝の気配を感じながら、暖かな布団の温もりを堪能するこのひとときが、今の僕にとってはいちばん幸せな時間だ。
 冷たい水に冷やされた恭子さんの手が、不意に僕の頬に触れた。驚いて開いた僕の目に、ふわふわとした茶色い髪と、ふわふわの彼女の笑顔が映る。
「やっぱり起きてた」
 ふふ、と笑い声を上げた恭子さんの手を引いて、僕は彼女に口づける。
「ダメだよ。火、つけっぱなしだし。そろそろ起きないと遅刻しちゃう」
 腕を強く引いて彼女を布団に引き込もうとした僕に、恭子さんはピシャリと言った。
「僕は昼からでいいんだよ」
「あたしが行けなかった場合は、代吹きしてもらいますからね。これはパートリーダー命令です、たっちゃん?」
 すっと立ち上がって背を向けた恭子さんに、僕は「たっちゃんって呼ぶな」と呟いた。そんな風に呼ばれた日には、部内で何を言われるかわかったもんではない。冷やかしや含み笑いのオンパレードが目に浮かぶようだった。
 僕が、そう呼ばれることを何より嫌うとわかっていて、恭子さんはときどき、僕を「たっちゃん」と呼ぶ。別に二人だけのときならいいのだ。二人だけの時間、二人だけのための会話の中でなら、何と呼ばれても構わない。「ブタ」だの「クズ」だの呼ばれても、僕は、恭子さんだけは許せるだろう。でも、今のは、ただの嫌がらせだろ? 学校でそう呼んでもいいのね、っていう。
 むくれた僕を背に、恭子さんはキッチンに戻っていく。僕だって、本当は昼からでいいわけがなく、しぶしぶと起き上がった。
 ほんの少し張り詰めた食卓には、やっぱり黄色いスクランブルエッグがあった。
 自然に少し膨れてしまう頬に押し込んだそれは、大層甘かった。

Copyright (c) 2009 Rei Masaki All rights reserved.